千葉地方裁判所 昭和49年(ヨ)170号 決定 1975年1月11日
債権者
篠宮満す
外四四一名
右代理人
小長井良浩
<外三名>
債務者
新東京国際空港公団
右代表者総裁
大塚茂
右代理人
浜本一夫
外二名
右指定代理人
奥平守男
<外三名>
主文
債権者らの申請をいずれも却下する。
理由
第一 債権者らの申請の趣旨及び理由
(趣旨)
債務者は別紙図面一中(一)記載部分に埋設された土壌を撤去しなければならない。
債務者が土壌を撤去しないときは債権者らが債務者の費用で撤去することができる。
債務者は同図面中(二)記載のA、B、C部分の各土壌につき薬液注入工法を施行してはならない。
(理由)
一当事者
債権者らは、いずれも肩書地において生活を営んでいるものであり、債務者新東京国際空港公団(以下、公団という)は、「新東京国際空港の設置及び管理」等を目的とする法人である。
二被保全権利(人格権に基づく土壌撤去及び薬液注入工法の差止請求権)
人は皆水無しには生存することができない。水こそ生命の源であり、生存の最低条件である。
後述するごとく、債権者らは債務者公団の使用した土壌凝固剤により流出するホルマリン等の有毒物で汚染された地下水源のみを飲料水源としているものである。
個人の生命、自由その他人間として生活する上の利益に対するいわれのない侵害行為は許されず、かかる個人の利益はそれ自体法的保護に値する(これを財産権と対比して人格権と呼ぶ。)。しかして右侵害行為が継続的かつ反覆的に行われている場合、これが救済の手段として単に不法行為による損害賠償請求をするほかないとすれば、被害者の保護に欠けることはいうまでもないから、損害を生じさせている侵害行為そのものを排除することを求める差止請求が認められなければならない。
債務者公団の後述するごとき薬液注入工法におけるホルマリン、尿素等有毒物の流出によつて、飲料用地下水源を汚染する行為は、正に右場合に該当し、行為の差止請求が認めらるべきである。そして又、かかる有毒物を流出せしめる薬液注入工法による工事の続行が許されないことも当然である。
とりわけ、本件においては右工事の続行の禁止のみならず、既になされた右工法により汚染された土壌を撤去するのでなければ、債権者らは土壌凝固剤から日々流出する有毒物による健康被害からのがれるすべがなく、生命身体に回復し難い損害を蒙ることとなるから、右土壌の撤去をも求めることができるものである。
三保全の必要性
(一) 土壌凝固剤の注入
債務者公団は、成田市土屋のジェット燃料基地から建設中の新東京国際空港航空機給油施設までの約7.2キロにつき、昭和四八年一〇月から「暫定」パイプラインの埋設工事に着手した。
右工事にあたり、債務者公団は根木名川、国道五一号線、同二九五号線、東関東自動車道、県道小見川線、公団資料輸送道路について、それぞれこれらを横断してパイプラインを埋設せしめるために、一〇メートル以上の深さにおいて地中をくぐり抜ける推進工法を施行している。
右埋設地点を含む地帯は、成田市の飲料用水源地帯であつて、きわめて出水し易く、地盤は軟弱であることから、債務者公団は昭和四九年二月頃から同年四月二五日までの間に、尿素系及び水ガラス系の土壌凝固剤を別紙図面一中(一)記載の個所に少くとも総計二、六六九、五一〇リットル注入した。即ち尿素系土壌凝固剤のうち、スミロック、ユリロックなる各商品名をもつ薬剤については、それぞれ367.63リットル、七二三、〇〇〇リットルを注入し、水ガラス系土壌凝固剤については、CCP、LW、ケミ3号なる各商品名をもつ薬剤をそれぞれ一二六、八〇〇リットル、一、〇四一、九八〇リットル、四一〇、一〇〇リットル注入した。右注入量は、債務者が自ら発表した資料に基く数量である。
(二) 薬液の危険性
ホルマリン(ホルムアルデヒドの水溶液)は、これを摂取した場合、強烈な腹痛、血尿、蛋白尿、尿管の閉鎖、めまい更には意識不明の状況を人体にひき起す。急性の局所毒性についても危険性が指摘されている。後遺症及び徴小量を継続的に摂取した場合の影響については、実験例もなく、その安全性は保証されていない。巷間に言われているアクリルアミドよりホルマリンは毒性が強い。このアクリルアミド系ですら、福岡県粕屋郡新宮町では、飲用開始後およそ一ケ月で神経系統の傷害を受けた重病者二名を発生せしめている。
尿素は、微生物により分解されてアンモニア、亜硝酸及び硝酸となり、これが摂取された場合、それぞれの中毒症状をひき起すこととなる。これらの中毒は、青酸中毒や一酸化炭素中毒と同様血液中の酸素の量に影響し、極めて危険である。
ホルマリンにしても、尿素にしても、水道法で定められる水質基準にその規定がないのは、本来飲料水に入る筈がない、入つてはならないものとされていたからである。
(三) 地下水の汚染
土壌凝固剤は、その目的からして、地下水により土壌が土木工事上不安定な所で用いられる。従つて常に地下水流にさらされた形で使用されることになる。
土壌凝固剤が危険な成分を含んでいても、従来の学説で安全であるといわれたのは、それらが土壌に作用した後、土壌とともに完全な凝固物となり、危険な成分を周囲に放出しないとされたためである。しかし広島県三次市とか福岡県新宮町での最近の事故は、土壌凝固剤が周囲の地下水に危険な成分を放出することを明らかに示している。この原因は、土壌凝固剤が土壌に注入されたとき、凝固する以前にその成分の一部が流出したことによるものであり、その他凝固剤が完全反応をせず、又現実的な混合比の関係から未反応の成分が残留しそれらが流出したことによるものである。更に凝固した凝固剤自体が、環境条件の変化とともに経年変化して再溶出し流出する可能性は否定できない。
建設省は、土壌凝固剤による地下水汚染による人身事故の可能性にかんがみて、昭和四九年五月二日事務次官通達をもつて、かかる土壌凝固剤による薬液注入工法の全面的な中止を全国の関係者に通知した。
(四) 飲料用地下水源の汚染
債務者公団は、地元住民がその生活体験から指摘してきた危険性に耳をかさず、「暫定」パイプラインを成田市寺台地先の根木名川周辺の軟弱地盤地帯に埋設せんとして地下掘削中に地下水脈に遭遇した。しかして債務者公団は、かかる事態に対処するため、地元民に何らの説明、相談もなく、又周辺地下水系に対する事前調査等所定の手続(高分子注入剤メーカー会が昭和四八年六月一三日に作成した「薬液取扱い上の注意」参照)もとらず、薬液注入工法を採用し危険な薬液を地下水系の存在する土壌に注入したのである。
根木名川周辺地域が、土木工事の困難な軟弱地盤地帯であり、浅井戸によつて民家の飲料水が確保されている地域であり、又成田市営水道の地下水源(地下水盆)の直上にあるということは、夙に知られていたことである。このような場所で土壌凝固剤を使用すれば、例えば尿素系の場合、尿素、ホルマリン、硫酸等が周囲の地下水に放出されることは明らかである。
かかる地下水の汚染は、まず浅層地下水(周辺地域の浅井戸用水源)の汚染に始まり、漸次深層地下水の汚染へと進み、行きつくところ成田市営水道の地下水源汚染に至ることは否定することができない。
(五) 成田市の地下水源の非代替性
建設省が昭和四八年八月二七日に発表した「広域利水調査第二次報告書」によれば、昭和六〇年における南関東地域の水需要の予測では、利根川の河川開発が当初の計画通り進んだとして、三〇パーセントの供給不足が見込まれている。しかも利根川の河川開発も上流でのダム建設の困難さから計画通り進展しないことが予想されている。
一方、水不足の南関東に位置する千葉県は、独自に水需給計画をたてているが、基本的には利根川に依存せざるをえないのであるから、昭和五〇年代における慢性的な水不足を自ら解決することは不可能であろう。従つて、表流水によるものであれ、地下水によるものであれ、の水源を質的及び量的に確保す既存ることは、県民に対して上水道の管理責任を負つている千葉県にとつて至上命令である。
従つて、成田市の地下水源には代替性がないのである。
地下水の質的及び量的な保全について全体的な責任を負う所管行政庁が国になく、資料も整備されておらず、「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」及び「工業用水法」は地盤沈下対策を目的とするものであり、地下水の汚染防止は今のところ、成田市民が自らの責任でなさなければならないのである。
四結語
債務者公団の本件工事によつて、成田市の旧市街及び寺台、山之作等の申請人ら住民は水源地帯に有毒物質を注入され、これを残置されることによつて日々生命身体の安全を脅やかされるに至つた。
従つて、直ちに土壌凝固剤によつて凝固した土壌を撤去しなければ、市民の生命身体に回復し難い損害を生ずる危験は明白である。よつて債務者公団に対し直ちに凝固した土壌の撤去を命ずるよう申請に及ぶものである。
又、債務者公団は、成田市民の生命身体の安全に対して甚大な危険を生ぜしめたにもかかわらず、土壌凝固剤使用による工事を未だに放棄せず、「暫定」パイプラインの建設を急ぐ態勢にある。よつて直ちに土壌凝固剤を用いた工事の中止を命ぜられたく申請に及ぶ次第である。
(補充主張)
別紙準備書面に記載のとおりである。
第二 債務者の答弁並びに主張
債務者は、主文同旨の裁判を求め、その申請の理由に対する答弁並びに主張は次のとおりである。
(答弁)
一申請理由一及び二について
債務者が新東京国際空港の設置及び管理等を目的とする法人であること、暫定パイプライン埋設のために土壌凝固剤を使用したことは認めるが、その余は否認する。
債務者は、その施工に係る薬液注入工法(以下「薬注工法」という。)において、後述のとおり、過去、現在にわたり、地下水に有毒な影響を与えたり、又将来においてもそのおそれはないから、債権者ら主張のような撤去請求権及び差止請求権はない。
二申請理由三のうち
(一)について
推進工法に係る本件工事の深度は、いずれも一〇メートル以上の深さであるというわけではなく、場所によつて異なる(別紙図面二添付図面①ないし⑥参照)。
債権者ら主張の埋設地点を含む地帯が成田市の飲料用水源地帯であることは不知。
その余は認める。
(二)について
ホルマリンを大量に摂取した場合に強濃度であれば、急性の局所毒性があることは認める。ホルマリンを摂取した場合の後遺症については不知である。しかしながら、微少量であれば、これを継続的に摂取しても害はない。例えば、野菜(しいたけ、きうり、ねぎその他)中にもホルマリンが含まれており、特にしいたけには二〇〇ないし四〇〇PPMも含まれているが、一般に食用に供されている。飲料水の場合でも、微少量(四PPM程度)であれば障害がないとされている。
ホルマリンがアクリルアミドより毒性が強いとの主張は否認する。福岡県粕屋郡新宮町でおきたアクリルアミド系凝固剤の事故については後述する。
尿素は地表のように酸素が十分存在する場所では微生物によつて分解され、アンモニア、亜硝酸イオン及び硝酸イオンとなる場合があり、これらが大量に摂取された場合には中毒症状を引き起こすことがあるとしても、薬注工法に使用された薬液が分解された結果、これらの物質が生じたとしても、中毒症状を引き起こすほど多量かつ集中的に生ずるとは考えられない。
ちなみに、尿素は大量に肥料として用いられている(わが国の昭和四七肥料年度において七六万六千トンが使用されている)。このような場合にも亜硝酸イオン及び硝酸イオンが当然生ずることになるが、被害の生じた例はない。このことは、これらが微少量であれば無害であることを物語るものであり、又それぞれ亜硝酸ナトリウム、硝酸カリウム、硝酸ナトリウムとして食品に添加することが認められている(食品衛生法六条、同施行規則別表第二、二並びに七九及び八〇参照)。なお、アンモニア等の大量摂取に基づく中毒を青酸中毒や一酸化炭素中毒と比較するのは適切ではない。
ホルマリン及び尿素が水道法で定められる水質基準に規定がないことは認める。
(三)について
土壌凝固剤は、土壌が軟弱なところで用いられることは認めるが、常に地下水流にさらされた形で使用されることは否認する。
土壌凝固剤は、危険な成分を含んでいても、それらが土壌とともに完全な凝固物となつて、その危険な成分を周囲に放出しないから安全であるというのが学説上の定説であることは認める。
債権者ら主張の広島県三次市及び福岡県粕屋郡新宮町における事故に際し、周囲の地下水に凝固前の成分が放出されたことは認める(ただ、これは後述のとおり施工方法上の誤り等に起因するものである。)が、凝固した薬液自体が環境条件の変化とともに変化して流出する可能性は否定できないとの主張は否認する。
建設省が昭和四九年五月二日建設事務次官通知「薬激注入工法による建設工事の施工について」をもつて、所管関係機関及び建設省所管の関係者に対し、薬注工法の一時中止及びその再開等に関し通知したことは認めるが、右通知が薬注工法の全面的な中止を求めるものであることは否認する。
(四)について
債務者が暫定パイプラインの埋設に際し、パイプラインの危険性を顧慮しなかつた旨の主張は否認する。
根木名川周辺の工区(別紙図面二に①と表示の部分)において地下掘削中、堅坑に地下水が湧出したことは認めるが、右地下水の湧出が地下水脈に遭遇したことによるものであるか否かは不明である。
債務者は、暫定パイプラインの着工にあたり、関係市民に対する説明会を開催し、その際根木川名横断等に際しては推進工法による横断工事を行う旨説明したことはあるが、特に薬注工法についてその具体的工法を説明したことはない。
債務者は、薬注工法による工事着手にあたり、工区周辺についてボーリングによる地質及び地下水位の調査をし、かつ債権者ら主張の高分子注入剤メーカー会の「薬液取扱い上の注意」にしたがつて同工法を施工させたものである。
根木名川周辺地域の一部が軟弱地盤地帯であること及び同地域の住民のうちには浅井戸から飲料水を確保しているものがあることは認めるが、同地域が成田市営水道の地下水源の直上にあることは不知である。
(五)について
債権者ら主張のような資料の存すること及び同資料中に債権者ら主張のような予測が記載されていることは認めるが、成田市の地下水源には代替性がないという主張は不知である。
三申請理由四について
すべて否認する。
(主張)
一暫定パイプライン工事の概要
(一) 工事計画
債務者は、新東京国際空港に発着する航空機に航空燃料を円滑に供給するため、昭和四六年一二月以降、千葉港から新空港に至る延長約四四キロメートルにわたり航空燃料輸送用のパイプラインを建設中のところ、諸般の事情によりこれが完成まで相当長期の時日を要することが予想されるに至つた。このため、債務者は、右パイプラインに代わる暫定輸送対策として、航空燃料を鹿島地区および京葉地区から成田市土屋までは鉄道によつて、土屋から成田市吉倉まで約2.9キロメートル間は新たに埋設するパイプラインによつて、成田市吉倉から空港まで約4.9キロメートル間は既埋設のパイプラインによつて輸送することとした(いわゆる暫定パイプラインの合計延長は約7.8キロメートルである。)。
(二) パイプラインルート
債務者は、関係機関と協議のうえ、暫定パイプラインの敷設に際してはできる限り道路等の公共用地を利用することとし、かつ、保安管理と安全性の確保とを考慮して本ルートを選定した。
右パイプラインルートの概要は、次のとおりである(別添図面二参照)。
(1) 起点 成田市土屋(債務者専用資材取卸場)
(2) 終点 新空港内(給油センター)
(3) 延長 約7.8キロメートル
(4) 施設 外径355.6ミリメートル鋼管一条敷設
(三) 施設の設置位置および設置基準
(1) 設置位置
土屋施設(圧送施設)
成田市土屋
パイプライン
成田布土屋―寺台―山の作―吉倉―空港
空港内施設(受入施設)
成田市三里塚
(2) 設置基準
消防法に基づき設置する。
(四) パイプラインの構造
圧力配管用炭素鋼鋼管二種(JIS、G三四五四、STPG三八)およびAPI、五LX―X四二による継目無鋼管を使用する。
(五) 埋設方法
河川、道路を横断する箇所においては、主に推進工法により鞘管(管径八〇〇ミリメートルおよび一、八〇〇ミリメートル)を設置し、この内に送油管を敷設する。その他の箇所では、場所に応じ、地下1.2メートル以上、1.5メートル以上または1.8メートル以上に埋設する。
二薬注工事の概要等
(一) 薬注工事概要
暫定パイプライン新設部約2.9キロメートルのうちには国道、県道、市道、河川等に交差する箇所があり、これら交差部のうち、重要な箇所六箇所については、推進工法(道路、河川等を横断して埋設物を設置しようとする場合、その両側に鋼矢板等により堅坑を掘削し、一方の堅坑内から他方の堅坑に向けて目的物を押し込む方法)を採用した。
この工法を施工するにあたり、土質調査の結果およびその他の諸事情を考慮し、地盤の強化安定、止水等のため、いわゆる薬注工法を採用し(各地点ごとの薬注工法採用の事情その内容等については、後述する。)、昭和四九年一月中旬から同年四月下旬までの間これを実施した。
注入された薬液の種類と数量は、推進箇所の状況および目的によつて異なるが、総量は水ガラス系一、五七八、八八〇リットル、尿素系一、〇九〇、六三〇リットルである。
(二) 各地点における薬注工法採用の事情等
(1) 根木名川横断部(別紙図面二の添付図面①(以下単に添付図面という))
この地点の地盤は、非常に軟弱な粘性土で、その下方に砂層が存在している。このような箇所に安全かつ確実にパイプラインを設置するには、泥水加圧機械による推進工法が最良と判断した。
この工法を用いた場合には堅坑の掘削、掘進機械の堅坑からの発進および反対側堅坑到達時にそれぞれ土砂の崩壊を招くおそれがあるため、あらかじめ止水および地盤を強化する必要があり、諸種の条件を考慮して薬注工法をもつとも適切な工法として採用した。薬液は、当該地盤に最も適切なものとして水ガラス系および尿素系を使用した。
(2) 国道五一号横断部(別紙添付図面②)
この地点の土質は、前述(1)根木名川横断部の土質にほぼ類似しており、かつ、主要道路を横断することになるため、工事中に道路の沈下、陥没等を生じ、交通の危険を招くおそれがあること等の事情を考慮し、前同様の推進工法を採用した。薬液は、水ガラス系および尿素系を使用した。
(3) 国道二九五号横断部(別紙添付図面③)
この場所も軟弱な地盤(到達堅坑側は細砂が固結した状態)で、かつ、前述(2)と同様主要道路を横断するので、推進工法を採用した。薬液は、尿素系および水ガラス系を使用した。
(4) 県道成田小見川鹿島港線横断部(別紙添付図面④)
前述(2)、(3)同様に主要道路を横断するので推進工法を採用した。
この部分の推進部の土層は、粘性土でその層も厚く、沈下や湧水に対しては特に問題はなかつた。しかし、発進堅坑背面(ジャッキの反力が伝わる地盤)が軟弱なため、この部分の地盤改良が必要となり、水ガラス系を使用した。
(5) 資材輸送道路横断部(別紙添付図面⑤)
資材輸送道路であるので、前同様の理由で推進工法を採用した。
この付近の地盤は、軟弱な腐蝕土層で、多量の水分を含み、そのまま掘削すると急速に脱水し、地盤が急速に沈下し、ひいては道路の沈下、陥没等を招来するおそれがあつた。そこで鞘管内部への多量の湧水を防ぎ、地盤の沈下を極力押えるため、薬注工法を採用した。薬液は、水ガラス系を使用した。
(6) 東関東自動車道横断部(別紙添付図面⑥)
薬注工法採用の事情は、以上に述べたところとほぼ同様であるが、粘性土およびその土層中に一部砂層が介在しているため、薬液は二種類の水ガラス系を使用した。
(三) 薬注工法の内容
薬注工法は、一般に地盤中に薬液をポンプ等で圧入し、地盤内で固結せしめ、止水および地盤強化を行う工法である。右薬液は、地盤中に注入されるまでは液体であつて、地盤中の所定の箇所においてゲル化することが必要である。そこで薬液をA・B両液に分け、両液が混合されたときから所定の時間経過後ゲル化する方法を採用している。薬液が混合されてからゲル化するまでの時間(ゲルタイム)は、工事目的や各種の条件により、数十秒から数十分程度に調整される。本件工事では、ゲルタイムが一ないし五分程度のものが要求されたため、A、B両液を別々のポンプによつて分けて圧送し、両液が合流するY字管から注入管先端に至るまでの間に薬液が混合するような方法を採用した。
注入された薬液は、地下水と接触することもあるが、地下水は、多くの場合、微小な土砂の粒子間の間隙に存在し、ほとんど移動しないものであり、河川の流れや井戸の中の水のように水塊としては存在するものでない。このような土中に薬液を注入すればその速度がきわめて早いから河川や井戸の中へ直接薬液を投入した場合のように大量の水によつて希釈されることはなく、したがつて、薬液のゲル化が妨げられない。
債務者は、本件薬注工事にあたり、薬液が無反応のまま土中に浸透しないよう十分な安全性を確保するため、次の事項に留意して施工した。
(1) 計量および混合
薬液の計量は、目盛付タンク、メスシリンダー等を用いて正確に行い、十分にかくはんして確実な溶解混合が行われるようにした。
(2) ゲルタイムのチェック
薬注の目的に応じてゲルタイムおよび薬液の配合を決定し、右決定が正しいかどうか随時ゲルタイムのチェックを行つた。
(3) 薬液の注入
混合された薬液は、ボーリング用機械を使用して土中に注入した。
(四) 薬液の種類およびその使用量
各地点における薬注工法で使用した薬液の種類および使用量については左記のとおりである。
薬液注入量一覧表
単位リットル
(注入状況は別添図面①ないし⑥参照)
使用箇所
根木名川
国道五一号
国道二九五号
県道成田小見川鹿島港線
資材輸送道路
東関東
自動車道
計
水ガラス系
LW
六〇〇、四〇〇
一七二、〇〇〇
一五三、七八〇
三三、五〇〇
五五、四〇〇
一五三、七〇〇
一、一六八、七八〇
一、五七八、八八〇
ケミ3号
四一〇、一〇〇
四一〇、一〇〇
尿素系
スミロック
三六七、六三〇
三六七、六三〇
一、〇九、六三〇
ユリロック
一二三、
〇〇〇
六〇〇、
〇〇〇
七二三、〇〇〇
計
七二三、四〇〇
七七二、〇〇〇
五二一、四一〇
三三、五〇〇
五五、四〇〇
五六三、八〇〇
二、六六九、五一〇
(五) 結び
以上述べたところから明らかなように、債務者が本件工事に用いた薬注工法は、きわめて安全なものであつて、債権者らが主張するように、ホルムアルデヒド等が反応しないままに、地下水に浸透し、人体に有害な汚染を与えたような事実は全くない。
債権者らが本件申請において、とくにその危険性を主張している尿素樹脂初期縮合物である主剤は、助剤および硫酸等を含む液と混合された後、土中粒子間に浸透し、固結する。この際、主剤中に含まれる微量のホルムアルデヒドは、そのほとんどが助剤との付加縮合反応により、メチロール化合物―メチレン化合物―メチレン化合物の縮合物に変化し、無害化される。
この凝固物は土中において分解することは考えられないので、債権者らの経年変化によつて右凝固物が溶解する可能性があるとの主張は杞憂である。
なお、助剤の尿素は一般に肥料および飼料添加物等に使用されており、無害性については衆知の事実である。
三地下水汚染のないことについて
(一) 前述のとおり、本件薬注工法においては、主剤、助剤等が完全に混合され、ゲル化しつつある状態において、土中に挿入した注入管の先端より土中に注入され凝固するのであつて、右ゲル化の過程において地下水に浸透することはありえないし、また凝固した物質が地下水により溶解することもない。したがつて、地下水の汚染は考えられない。薬注工法が採用された時期は、昭和三〇年頃の水ガラス系から始まり、次いでアクリル系(昭和三六年頃)および尿素系(昭和三八年頃)が使用されるようになつた。わが国の過去三箇年におけるその注入量はおおよそ次のとおりである。
単位リットル
薬材名
アクリルアマイド系
尿素系
(水ガラス系)
硅酸ソーダ系
概数量(推定)
昭和四五年度
四〇、〇〇〇、〇〇〇
六〇、〇〇〇、〇〇〇
一七〇、〇〇〇、〇〇〇
昭和四六年度
四五、〇〇〇、〇〇〇
八〇、〇〇〇、〇〇〇
二〇〇、〇〇〇、〇〇〇
昭和四七年度
六〇、〇〇〇、〇〇〇
一五〇、〇〇〇、〇〇〇
二七〇、〇〇〇、〇〇〇
債権者らは、土壌凝固剤は常に地下水流にさらされた形で使用されると主張する(債権者らのいう地下水流とは、いかなる現象を指すのか不明である。)が、本件薬注工事が行われた場所には、水流といわれるほどのものは全く存在しない。そして、右場所において土壌中に含まれる水が移動するのは、たかだか一分間数ミリ程度であり、いわば静止しているのと同様であつて、このような土壌中に前述の工法により薬液を注入しても、これが流出することはあり得ない。
したがつて、地下水に危険な成分が放出されることはないのである。
もつとも、債権者らの指摘するような事故(福岡県粕屋郡新宮町、広島県三次市および江戸川区松島三丁目における各事故)が存するが、これらは後述するように、いずれも施工方法の誤りによつて惹起された稀有の事例である。
(二) 広島県三次市における事故の場合には、施工箇所がきわめて透水性のよい砂礫層であつたため、一部未反応の薬液が砂礫層等を透過して近隣の井戸に流入したものと考えられる。
したがつて、右事故の場合は、本件施工箇所の土質とは全く条件の異なる地盤に施工されたものである。
(三) 福岡県粕屋郡新宮町における事故の場合は、注入箇所の至近距離(約1.7メートル)に井戸があつたため、薬液が直接井戸に流出したものである(右事故の場合注入箇所より一二メートルないし一四メートル離れた井戸水には何らの異常が認められていない。)。
(四) また、江戸川区の下水道工事の場合(疎甲第四号証)は、薬液がそのまま現場に隣接する園芸場に直接流出し、地表で固つたため植物に被害をおよぼしたものである。
四水質検査の結果について
千葉県および成田市は、前記建設事務次官の昭和四九年五月二日付け「薬液注入工法の施工について」の通知を受けて、本件薬注工事施工箇所付近の井戸水について、その水質等の検査を実施した。そのいずれの検査の結果によつても、右井戸水はすべて、飲料水として適当であるとの結論が出されたのであつて、債権者ら主張のようなホルムアルデヒド、尿素、ゲル化物およびアクリルアミドは検出されていないのである。
したがつて、右水質検査の結果からしても、本件薬注工法が付近住民に有害な結果をもたらすおそれのないものであることは明白である。
五将来の被害発生のおそれについて
債権者らは、時日の経過にしたがい、地下水の汚染が進行するおそれがある旨主張しているが、右主張が理由のないものであることは、前述したところからも明らかであろう。
しかしながら、債務者は万一の場合を想定し、今後の工事施工中はもちろんのこと、工事完成後においても、適宜に、水質検査を行うこととしており、また、成田市においても今後長期にわたり水質検査を行うこととしている。
したがつて、今後とも付近住民の健康等に被害を生ずるおそれはない。
六仮処分の必要性について
本件仮処分申請は、いわゆる仮の地位を定める仮処分であつて、債権者らの主張によれば紛争の本案判決確定までに債権者らの生命身体に生ずる回復し難い損害をさけるため、その発生をすみやかに防止する暫定的な地位を定めることを目的とするものである。しかしながら、前述の水質検査の結果にみられるとおり、現在においては何ら債権者らに危害を生じていないものであり、かつ、将来についてもそのおそれはない。したがつて、本件仮処分申請は、被保全権利および保全の必要性を全く欠くものであり、また、保証金をもつてかかる被保全権利および必要性についてかえるのも相当ではないから、すみやかに却下されるべきものである。
(補充主張)
別紙補充答弁書、同(第二回)各記載のとおりである。
第三 当裁判所の判断
一本件記録によれば、次の事実を認めることができる。
1 債権者らはいずれも成田市在住の住民で、その飲料水として井戸あるいは成田市営の上水道を利用しているものであり、債務者は「新東京国際空港の設置および管理」等を目的として設立された法人である。
2 債務者は、現在および将来の航空運送の発展のため、千葉県成田市三里塚に新東京国際空港を建設しているものであるが、右新空港に発着する航空機に航空燃料を円滑に供給する目的で昭和四六年一二月以降千葉港から右新空港に至るまでの延長約四四キロメートルにわたる航空燃料用パイプラインの建設を進行していたが、右パイプラインの完成まで長期の時日を予想されるに至つたため、右パイプラインに代る航空燃料の暫定的な輸送対策として成田市土屋から同市吉倉までの約2.9キロメートルに新たに暫定パイプライン(別紙図面二に記載のとおり)を埋設し、鹿島地区および京葉地区から新空港までのその他の区間は鉄道あるいは既設のパイプラインを利用して航空燃料を輸送することにした。右暫定パイプラインによる輸送は一応昭和五〇年三月三一日までとしたが、その後本設パイプラインの使用が開始されるまで期間を延長することとした。
3 ところで、右暫定パイプラインの埋設に際しては、債権者らの申請の趣旨第一項記載の①根木名川横断部②国道五一号横断部③国道二九五号横断部④県道成田小見川鹿島港線横断部⑤資材輸送道路横断部⑥東関東自動車道横断部の六箇所の地点は国道、県道、市道あるいは河川等に交差するところで重要な箇所であるため債務者主張の推進工法(右①、②点については泥水加圧機械推進工法③ないし⑥点については手堀り推進工法)を採用し、そのため地盤の強化安定、止水等の目的で土壌凝固剤を使用する薬液注入工法(以下単に薬注工法という)を用いることとなり、右工法を昭和四九年一月中旬から同年四月下旬の間実施した。右薬注工法に使用した土壌凝固剤は水ガラス系のLW(右①ないし⑥点)、ケミ三号(右④点)および尿素系のスミロックB(右③点)、ユリロック(右①点)、エスロックU(右②点)を採用し、前記六箇所に注入した凝固剤の種類商品名および数量は債務者主張のとおりであり総量は水ガラス系一、五七八、八八〇リットル、尿素系一、〇九〇、六三〇リットルであり、注入の深度は地下一六メートルまでの範囲である。(なお疎甲号証中には⑤、⑥地点に尿素系の成分たるホルムアルデヒドが検出されたことを示す検査結果が存在するが、右疎明だけでは前記認定を覆えすに足りるものではない。)
二債権者らは右暫定パイプライン埋設の際使用した右各凝固剤が債権者らの飲料水として利用する地下水にその成分が混入するため、債権者らの健康に有害である旨を主張する。
ところで、本件疎明によれば、前記地点で用いられた凝固剤は、いずれも二剤からなり、その混合によつてゲル(膠化体)化されるが、二液の濃淡の比率等によつてゲルになるまでの時間が変動すること、凝固剤の問題点は、それがゲル化される以前に、その成分が地下水に浸透すること、及びゲル化後における未反応物質の残存ならびにゲル化物質自体が水に溶解することにあることが認められ、債務者は、本件凝固剤にはかかる問題点がないと主張するのである。以下この点につき判断する。
本件各疎明によれば、薬注工法は、そもそも、土壌に含まれる水分を凝固剤で置換することによつて、土壌の性質を変更させるものであり、この施工の対象となる土地は当然に水分の多いところであるが、本工法を行なつた土地付近の地下には、債権者らの成田市住民が飲料水用として井戸を利用している場合にその水源としての海水面上に位置する浅層地下水及び井戸あるいは成田市営水道の水源としての海水下一五ないし一〇〇メートルに位置する深層地下水が存在し、右各地下水の一日間の移動速度は、浅層地下水では一ないし二メートル、深層地下水ではその上部で0.2ないし0.1メートル、その下部で0.1ないし0.05メートルであること、右地域は砂礫層ばかりでなく不透水性ないし難透水性の砂質粘土層や粘土層が存在するが、右層はその上下の砂礫層に比べて薄く、連続性に乏しいため浅層地下水から深層地下水への吸引が存在すること、本件推進工事期間中の昭和四九年二月に根木名川発進立坑から出水、同年四月に国道二九五号横断部到達立坑から出水し更に付近の井戸が枯水してしまつたこと、ために同年四月債務者は一旦推進工事を中止したこと、右井戸の枯水が本件の推進工事が原因であると考えられることが認められ、右事実からすれば、本件推進工事に際して施行した薬注工法に使用した凝固剤は、右国道二九五号線横断部のみならず他の五箇所においても地下水と接触していることが考えられ、そうすると右凝固剤の性質如何によつては、これが飲料水の水源としての地下水に溶出して附近住民の健康に悪い影響を与えることが考えられる。
1 尿素系凝固剤について。
(一) 本件各疎明によれば、本件薬注工法に利用したユリロックおよびスミロックは、いずれも主剤として尿素ホルムアルデヒド初期縮合物(ユリロックは助剤として尿素)及び硬化剤として工業用薄硫酸を使用し、主剤中のホルムアルデヒド濃度はユリロック四パーセント、スミロックでは0.3ないし0.5パーセントであり、主剤・助剤が硬化剤と遭遇するとホルムアルデヒド濃度は更に低くなり、ユリロックでは0.2パーセント、スミロックでは0.07ないし0.12パーセントとなる。又ホルムアルデヒドと尿素の初期縮合物は硬化剤と反応して最終的にはゲル状態となることが認められる。
債務者は尿素系凝固剤のホルムアルデヒドは硬化剤と反応してゲル化した後は、地下水と接触しても再溶出することはない旨を主張し、右主張に添う疎明も存在するが、他の疎明(甲九〇号証―広島大学井藤壮太郎・山口登志子鑑定書)によれば、実験によつて一たん反応したホルムアルデヒドも、常温の水あるいは流水と接触することによつて再溶出することが認められ、右事実ならびに未反応物質も多少はありうること等を考え合わせると債務者の主張は採用することができない。したがつて本件薬注工法によつて一たん反応しゲル化したホルムアルデヒドは地下水と接触することによつて僅かながらも再溶出すること、従つてこういつた研究の成果などから、昭和四九年七月に建設者が尿素樹脂系の凝固剤を使用した薬注工事は、安全性の観点から、中止すべき旨の通達を出していることが認められる。
(二) まず凝固剤の主剤に含まれるホルムアルデヒドによる健康被害について検討する。(1)まずその急性中毒については、債権者ら成田市住民に現実に健康被害が発生したと認めるに足りる疎明はない。(2)次にホルムアルデヒドによる慢性中毒については、本件疎明によれば、ホルムアルデヒドの体内への蓄積を否定する説もあるが、他方、近時視野狭窄、暗順応障害、視力低下などの健康被害を生じた児童を調査した結果、例外もあるがホルマリンを溶出する合成樹脂製食器(ユリア樹脂)を長期間使用したことがその原因として考えられうること(但し、その溶出量は五五マイクログラムから四六〇〇マイクログラム、その期間は一年未満から五年までであつた)、マウスを利用したホルムアルデヒドの慢性中毒実験(四〇〇PPMのホルムアルデヒドを二年間毎日飲料水として供与、三〇ないし五〇PPMの尿素系樹脂製食器の浸出液を二年間供与)の結果、眼の網膜上に損傷があらわれたことが認められ、以上の事実からすればホルムアルデヒドによる慢性中毒の可能性をまつたく否定することはできない。しかしながら、ホルムアルデヒドによる慢性中毒は現在学界において確立したものではなく、近時、研究が進められている段階であることが疎明される。したがつて、本件疎明によれば政府においても、しいたけ等の食品中に含有する天然ホルムアルデヒドを有害とはしないが、食品に対する添加物としてのホルムアルデヒドは、その危険性に鑑みて添加物としてはその使用を厳禁していることが認められる。
(三) ところで、問題は飲料水に含まれるホルムアルデヒドの許容量である。
本件疎明によれば、政府は昭和四九年七月一〇日付の厚生省環境衛生局水道環境部長通達によるホルムアルデヒドに関する飲料水の判定基準を、生活環境審議会水道部会水質専門委員会の意見を基として、慢性毒性を主体としたホルムアルデヒドの毒性に関する現在の科学的知見に基づいて、安全性が確保される飲料水中の濃度の限界を設定することとし、日本薬学会協定衛生試験法(日本工業規格に合致する)に定めるアセチルアセトン法による定量分析で測定可能な基準である0.5PPMを判定基準として、それ以下を「検出されないこと」といい、あるいは「検出されない」ことと(乙三五号証の二、乙六四、六五号証)したこと、学説のうちには、集団検診で発見した視野狭窄症児童の使用した食器とそのホルムアルデヒドの溶出量から検討して患者の使用量の一日の最少量は0.42ないし0.6ミリグラムであると判断して一日二リットルの飲料水を必要とするならば0.21ないし0.3PPMがホルムアルデヒドの慢性中毒の濃度であるとする学説、ソビエトの学者のように、動物実験の結果、一般人を前提とした場合0.09PPMが許容量であるとし、一〇〇分の一〇の安全度をみると、安全規準が0.0021ないし0.003PPMとする学説(甲九一号証―順天堂大学秋山晃一郎鑑定書)が存在することからして、右厚生省の基準は甘いとする批判もあり、更に0.05PPM以下と判断することが妥当であるとする考え方があるが、他方厚生省の通達を上回わる一五PPMあるいは三〇PPMが許容量であるとする学説も存在すること(乙一三号証、乙四三号証の一、二―慶応大学林喜男論文)、ホルムアルデヒドの慢性中毒の研究は最近行われるようになつたものであり、我が国においても外国においても定説が存在しないこと(例えば、八時間労働における作業環境の最大許容限度は、米国基準では五PPM、米国では一〇PPMとしている。)が認められ、右事実によれば厚生省の通達が、これ以下ならば絶対安全という決定的な基準であるということはできないにしても、ホルムアルデヒドがほんの微量でも存在していれば直ちに有害であるということもできない。更には厚生省の基準量をどの程度の期間継続して摂取すると慢性中毒になるかとの摂取量とその期間との関係についても判断しうる疎明はない。結局のところ、本件仮処分の審理にあたつては、鑑定の方法によることもできず、ホルムアルデヒドの飲料水中の許容量については、絶対的な安全という明確な基準はないといわざるを得ない。なお、ホルムアルデヒドの検査方法について通達で採用したアセチルアセトン法よりもクロモトロープ法によるべきであり、更にアセチルアセトン法によつても0.5PPM以下も有意的に検定しうる、あるいは蒸溜の手続は不要とする疎明(甲一三六号証)も存在するが、反対の疎明もあり(乙七〇号証の二)、いずれともにわかに決し難く、のみならず右二つの方法の差は有意的な下限値をどちらがより正確に検査しうるかという点あるいは有意的な下限値はいくらであるかについての疎明にすぎず許容量の判断とは直接関係のないものである。
更に、ホルムアルデヒドは尿素との相乗作用によつてその毒性が強められるという疎明もあり、右疎明によつて尿素系凝固剤のホルムアルデヒドは純粋のホルムアルデヒドの毒性よりも強い可能性は認められるにしてもその数量的因果関係は明確にされていない。
そこで、再溶出の量が問題となるところ、本件疎明によれば、本件薬注工法の実施以後昭和四九年一一月一八日までの間、千葉県成田市及び債務者が依頼した日本検査株式会社がそれぞれなした浅層地下水および深層地下水を利用した井戸の水質検査更には観測井を設置してなした地下水の水質検査の結果はいずれもホルムアルデヒドが検出されないことあるいは不検出であつたこと、すなわち、アセチルアセトン法による定量限界値である0.5PPM以下であつたことが認められる。(なお本件疎明によれば根木名川立坑内地下水及び国道二九五号線立坑内地下水のホルムアルデヒドの検査結果に13.6PPM、15.0PPMあるいは20.0PPMなどの数値が認められるが、これらは一時的なものであり、右疎明の存在は前記認定を左右するものではない。)右認定によればホルムアルデヒドの再溶出の量はアセチルアセトン法の定量界値限以下であることが認められ、本件疎明のうちには、右認定に反する実験結果を示すものもあるが、室内実験における状況と本件薬注工法の地下水における状況(例えば他の因子の介入による負の作用の働きなどが当然予想されないわけではない。)に相違の存することからして右認定と異なる疎明は、本件においてはそのまま妥当するか疑わしく適切なものということはできない。
(四) なお、本件疎明によれば、尿素系凝固剤は我が国において昭和三八年ころから土木工事等に使用されるようになり、昭和四五年には約六〇〇万リットル、同四六年には八〇〇万リットル、同四七年には一五〇〇万リットル使用されているが、これによる中毒の発生は未だ報告されていないことが認められる。
2 水ガラス系凝固剤について。
本件各疎明によれば、本件薬注工法に使用された凝固剤はケミ三号、LW―1および同―2であり、いずれも主剤としてけい酸ソーダ(ケミ三号は助剤として炭酸水素カリウムを使用)、硬化剤としてケミ三号はエチレンカーボート、LWはいずれも普通ボルトランドセメントを使用していること、本件薬注工法施行後の成田市の水質検査によれば、PHが8.40という高値であり、水道法四条一項にもとづく水質基準に関する厚生省令(昭和四一年五月六日)による規制値であるPH6.5以上8.5以下の上限に近い高値であること、しかしながら薬注工法施行前の水質検査においても同様の高値を示していたこと、更に又硅酸が35.0PPMを超える高値を示している井戸が存在していること、しかし、これもPHと同様、過去においても三五PPMを示していたことがそれぞれ認められる。右事実から考察すれば、水ガラス系凝固剤を使用したことによつても、PHおよび硅酸の検査値は使用以前のそれと同様であつて変化がないと判断することができる。従つて右高値の事実のみによつては、水ガラス系凝固剤の使用によつて地下水が汚染されたと認めることができず、その蓋然性も認めることができない。他に水ガラス系の薬注工法によつて地下水が汚染されたと認めるに足りる疎明はない。
三ところで本件仮処分はこれを認容しうるためには、いわゆる人格権を被保全権利とする仮処分の性格上、債権者らは被害が現実に発生している場合に限られはしないが、しかし債権者らが被害を受ける相当程度の蓋然性が存在することが必要であるところ、前記判断からすると、尿素系凝固剤中のゲル化したホルムアルデヒドが地下水と接触して再溶出し債権者ら住民の健康に被害を及ぼすという可能性を全く否定することはできないが、薬注工法施行後六月以上経過しても債権者らに健康被害が生じていないこと、更に前認定のとおりのホルムアルデヒドの許容量、ホルムアルデヒドの慢性中毒の可能性、ゲル化したホルムアルデヒドの再溶出の量、かつ、右溶出量が多量の地下水(当地が水盆であるから多量の地下水が存在すると考えられる)によつて稀釈されることが十分考えられること、併せて尿素系凝固剤が昭和三八年から我が国に多量に使用されているがこれの被害はいまだ知られていない(アクリルアミドによる凝固剤については昭和四九年三月福岡県新宮町において井戸水が汚染し、これを飲料に用いた者に中毒による小脳失調等の障害が起きた例、同月、東京都江戸川区でエリトンにより樹木が枯れた例があるが、いずれも薬剤を異にするのみならず、薬剤注入後、まもなく被害が発生している点でも状況が異つている。また、広島県三次市でエスロックUNによる水質汚濁が注入後一ケ月にして発生した例があるが、飲用を禁止したためか健康に対する被害はいまだ報告がない。)との疎明事実、更には現在、債務者において深さ九メートルないし一五メートルの一四本の観測井によつて水質の検査を続けており、従つて、汚染により水質基準に達しないときには、付近一帯の井戸水についても飲用に供することを禁止する措置をとりうるであろうし、又水道利用者に対しては、成田市の水道局において常時検査を行つており、ここにおいて対策がとられるであうろし、又水を空気中にさらすときは、ホルムアルデヒドの幾分かは蒸発し(甲一四号証)その減少をはかることができ、いずれにせよ、債権者らの健康に対する侵害を防止しうること等の疎明事実等々を考慮すれば、その被害の発生の相当程度の蓋然性は認められないものといわざるをえない。
のみならず、本件薬注工事が更に続けられることについては安全性の点から問題があるにしても、既になされた工事による凝固剤を含んだ土壌の撤去を求める債権者らの請求が、本件仮処分において適切なものであるかは問題がある。なんとなれば、凝固剤が注入されたのは出水を防ぐ目的のためであるが、この地帯には地下水に通じるところがあつて、凝固剤を取り出すと同時に出水するという事態も考えられ、又その防止のため更に凝固剤のような防止剤を使用する必要が生じてくるといつたことも考えられるのであつて、現在の水汚染が厚生省の検査基準で0.5PPM以下という程度に止まつているのに対し、却つて凝固剤を撤去したことにより債権者らの危惧する地下水の汚染が生じうる懸念なしとしないからである。しかも、どの場所からどの程度までの深度、範囲、量に亘る土壌を取り除くべきなのか、まつたく疎明もない。
かかる点は、本案訴訟において十分に審理すべく、それ以前に仮処分によつて債権者らに本案訴訟において勝訴したと同様の地位を形成すべき必要性の疎明は認められない。
なお、債権者らの求める薬注工事の中止については、債務者はもはや薬注工事はしない旨言明しており、しかもこれを行うとの疎明もないから、この点について仮処分の必要性もない。
四以上のとおりであるから、債権者らの申請は結局仮処分執行の対象物件の特定に欠け、かつ被保全権利およびその必要性の疎明がないことに帰し、又右疎明に代える保証を立てさせて仮処分を認めることも相当でないので主文のとおり決定する次第である。
(渡辺桂二 浅田潤一 小松峻)